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思春期から青年期にかけては、性的な感情が自然と芽生えていく年代であるため、誰しも愛と性の衝動に苦しめられるものであります。 感受性の豊かな人の中には、自分の性を恐れる人もいるようです。 若い多くの人は、週刊誌などのマスコミに取り上げられる性に翻弄され、他人と比較したり自分は人と違うのではないかと悩むことがあります。 人の数だけ個性も違いますし、肉体も違うわけですから、愛と性についての考え方も対応の仕方についても、千差万別であり、その人その人の考え方で良いのです。
あなたは、恋人と楽しい時を過ごした後、「また、今度ね」といって次の 約束もせず、別れているのではないですか。 それは、次に会えるという気持ちがあるから、あまり深く突き詰めないで、そういう言葉になっているのだと思いますが、果たして、次に会える保証などこの世にはありません。 茶の湯の心は「一期一会のおもてなしの愛」であり、千利休がきわめたのは「わび」と「さび」の心であり、物質的な欲望をかなぐり捨てて、何も削るものが ないところまで無駄を省いて、緊張感を作り出すという、わび茶(草庵 の茶)であります。 合戦時には、野営の陣でも点(た)てられ、これから戦に行く武将の殺 伐とした気持ちを抹茶でもてなしたとも言われています。 そして、「このお茶を飲んだ人は、もう生きて帰れないかもしれない」という思いが、送る側も送られる側も胸の中にあり、それが一層緊張感を高めることとなります。 ★ 「一期一会」とは、この機会を逃すと、もう二度と会うことはできないという言葉であります。 恋愛関係にある男女は、他人ではないという思いが自然と強くなり、だんだんと馴れ合いの関係になってしまうため、二人の間に緊張感がなくなり、お互いにこれぐらいならいいだろうと自我とか我が儘が顔を出し、甘えを生じるようになります。 初めてのデートのときを思い出してください。 嬉しさと緊張感があって、世界は輝き、その日一日を大切に過ごし、そのときの記憶を鮮明に留めているのではないでしょうか。 それが今ではどうでしょう。 馴れ合いになって、お互いに気随気ままで接しているのではないですか。 もし、あなたが現在の恋人を大切にしたいなら、いつまでも一期一会の愛の気持ちを大切にしてください。 あなたをいつも原点に戻してくれるからです。 それは、もう会えないかもしれないということではなく、今を大切に生きないと、明日の大切さが分からないからです。
★ 「好き」と「愛する」には大きな違いがある あなたが会う人には、すべて意味があります。 私たちが、好きで人と付き合うのは決して悪いわけではありませんが、もう「好き・嫌い」という次元で人に接するのを止める時代ではないでしょうか。 「好き・嫌い」ということをなくすためには、理由などあるわけはなく、愛する心を持つ人間になることで、自然に心が開放されるのです。 ★ 「好き・嫌い」という感情は 「あなたの好きなものはなあに」と聞かれたら、どれぐらい思いつくでしょうか。 たとえば、食べ物で言えば何が好きか、映画は何が好きか、飲み物は何が好きか、好きな色は何かなど、いろいろとあるでしょう。 誰か好きな彼氏ができますと、最初にする質問は、「何が好きか」ということではないでしょうか。 相手の好きなものと自分の好きなものが一致すると嬉しいからです。 なぜ、嬉しいのかといえば、相手の好きなものと自分の好きなものが同じとき、人は安心するからです。 自分が何かを好きになるのには理由があり、プロセスがあます。 たとえば、ドコモの携帯よりソフトバンクの携帯のほうが好きという場合には、ソフトバンクの携帯が好きになった理由があるはずです。 もし、相手も同じような理由で好きになったとしたら、お互いに共通の認識が生まれ、深く理解し合えるのではないかという、期待が高まるからです。 私たちは無意識のうちに、モノや人を「好き、嫌い」で選んでおり、「好き」という行為には、他のモノと区別する選択が働いています。 できれば、好きな人とだけお付き合いし、また、好きなモノだけを身近にたくさん置いておきたいという心理があります。 人間は好きな人にだけ愛情をいっぱい注ぎたいと考えますが、嫌いな人にはどうでしょうか。 人生は好きな人だけにめぐり合うわけではなく、嫌いな人とも会うし、相性の悪い人、あるいは、どうしても虫が好かないという相手とも、いやでも会わなければなりません。 世界には何十億という人間がいますが、あなたが人生の中で出会える人はほんのごく一部の人であります。 確かに道ですれ違う人、電車で見かける人などは多いかもしれませんが、そんな中で、実際に仕事を一緒にしたり、近所でのお付き合いをして、現実に会話のできる人は何人かと尋ねられたら、数えるほどではないでしょうか。 そんな少ない中で、「好き・嫌い」で人間関係をさらに選びますと、嫌いな相手のことを何も知らないままで終わってしまうこともあるでしょう。
「いま、あなた紅茶が飲みたくなったでしょう。実はわたしも熱い紅茶が飲みたくなったのよ」だまっていても、このように相手の考えていることが手に取るように分かり合う夫婦の仲があります。 相手が今何を望んでいるか、あるいは何を考えているのか、それとなく分かることがあります。 一種のテレパシー現象のように以心伝心で伝わってくることがあります。 このことを「あ・うんの呼吸」「あ・うんの愛」と呼んだりします。 昔から言われている「ツーと言えばカー」と言ったりするような感覚は、通じ合う同士によくあるコミュニケーションであるのです。 気のあった仲間とか気の合う男女の仲、あるいは長年連れ添ってきた夫婦のあいだでは、自然にそういう状況が生まれます。 あなたにもそういう経験はないですか。 なぜ、そういうことが起こるかと言えば、人間は、言葉だけでコミュニケーションをしているのではないからです。 人間はお互いに物理的に触れ合っているように見えますが、それ以外にも体の周囲には見えないエネルギーであるオーラが存在して、そのオーラを媒介にしてお互いに触れ合っているのです。 このオーラは肉体から発するものではなく、魂(スピリット)から発するものであり、「人間の体」は肉体とオーラの合体したものであり、そのオーラは波動として存在し、その波動の違いが人それぞれの個性となって現われているものです。 ある本によりますと、オーラは実際の肉体よりも大きく空間に広がっており、オーラの形は人や感情の変化によって変化しますが、普通の健康な人のオーラは足下に向かってタマゴ型をしており、実際の肉体より空間的に広がっているようです。 このため、隣に人が座ったりしますと、お互いのオーラが重なり合うため、隣の人が悲しいエネルギーのオーラを出していると、こちらのオーラが感応して悲しくなります。 そういうときに、こちらから温かい気持ちで相手の気持ちを受け止めてあげますと相手のオーラが感応してお互いに落ち着いた安らぎのある気持ちになっていくのです。 特に、悲しみも楽しみもお互いに分かち合ってきた夫婦でありますと、オーラの波動が似通ってきますので、テレビで言えば同じ周波数のチャンネルを持っているようなもので、相手が何を考えているのかが分かります。 「あ・うんの愛」は、お互いに相手の目標としている方向が分かりあえる信頼関係から生まれますので、夫婦であれば、とくにそういう愛を育むような人生観を持ちたいものですね。
「愛してる」という響きは、人にとって非常に気持ちの良い感情をいだかせてくれますね。 あるときは、勇気を奮い立たせ、あるときは、自我や欲望を捨てて相手を救おうとまで思わしめるところがあります。 「愛」という言葉自体は、一般の会話の中や歌謡曲の中でも日常的に使われていますが、その意味合いを追求しますと、微妙に違います。 たとえば、親が子どもに言う「愛してる」と、恋人同士がお互いに交わす「愛してる」などは感情的なレベルでも違います。 また、人類に「許し」を教えるために自分を犠牲にされたイエス・キリストの愛や、貧しい人々に生涯をささげたマザー・テレサのような愛もあります。 ★ 「愛」の定義は人によって違いますが、多くの人は「愛」と「愛情」を混同して使い、「情」を愛だと錯覚しているところがあります。 たとえば、子どもを愛さない親はいませんが、子どものためを思いながら、親の見栄や親の叶わなかった夢や自分の生き方を押し付けたり、あるいは親の世間体を繕うような育て方をしているのではないでしょうか。 また、恋人や夫婦でも「愛してる」と想う気持ちが強いあまり、相手の心や行動を縛り付けているとか、相手を自分好みの人間にしたいと強制したりしていませんか。 それは愛が深いゆえの行為と思っているかもしれませんが、それは「情」という執着からきているものですよ。 本来、「愛」は人を解放することであり、その人が何かを恐れ縛られていたら、そこから心の開放をしてあげるのが愛であります。 傲慢な人は、「あの人は私がいないとダメになってしまうから」と、自分の行為を正当化しますが、相手が自分より弱いと考えること自体が、相手は自分より劣っているとみなしていることであり、これほど相手の尊厳を傷つける言動はありません。 傲慢不遜もはなはだしいと言わざるを得ません。 それは「愛」のない行為です。 親が子どもを愛するのでも、子どもの魂の尊厳を尊重し、子どもの心の中に秘めた強さとか素質を引き出してあげるのが、本当の愛であります。 「愛」の本質とは、高次元の世界から降りてくるもので、見返りを期待せず、相手の喜びを自分の喜びに思える感情であります。
「なぜ、あの時に出逢ってしまったのだろう」と苦しい恋をしている人がいます。 それは、相手に対する自分の強い想いはあっても、片思いであったり、すでに相手の人が別の人と恋愛中だったり、あるいは、恋はできても、相手には妻子や夫がいたりしてままならぬ恋であったりと、かんたんにはゴールが見えない恋もたくさんあります。 こんなとき、「恋する相手がいるだけまし」と慰める人もいますが、当人は、「こんな苦しい恋をするのなら出逢わなければ良かった」と嘆きたいかも知れません。 他人の恋愛は対岸の火事みたいなもので、自分のほうに燃え移ってはじめて熱さが分かるものです。 恋をする人のエネルギーは、どこからそんなに沸いてくるのか分からないほど強いですね。 「人が変わったようだ」といわれるように、恋は「人を変える」エネルギーそのものです。 ★ 恋とは、その人を変え、愛を高めるための出逢いでありエネルギー 自分の人生はこんなものだと自分で勝手に決め付けている人が、恋をするや、自分の夢を語ったりするようになり、自分の人生の目標が明確になってきたという人も大勢います。 ところで、恋が苦しいのは、人の所有欲を刺激するため、他人から、身近になった瞬間、独占欲が頭をもたげてくるからです。 個人の尊厳を知りながら、所有したい欲望にかられるのが、恋の魔力なのです。 恋は昔から「お医者でも、草津の湯でも」と、恋に効く特効薬はないといわれますが、本当はあるのです。相手に執着している状態は、愛ではなく「情」であり、愛と情は似ていますが、全然違うものです。 愛は人を解放し自由にし、相手だけでなく、自分の心も解放されます。 心で掴んでいた想い(執着)が自分や相手や周囲を苦しめていたことに気づきます。 ★ あなたは何のために恋をしたのだろう。 その理由は、恋を愛に高めるために自ら恋を受け入れたのです。 恋は偶然の予期しない出来事だと思っている人が多いですが、実際には、自分自身に内在している霊的なものが導いていたのです。 それなのに苦しいというのは、執着に振り回されて目的に気がつかないため、それに気づかせるために苦しみが与えられていたのです。 では、どうして恋の心を愛に変えることができるのでしょうか。 それは、自分も含め、すべての関係者の幸福を願う心から生まれてきます。誰も犠牲にならないのが愛です。 そのためには、自分が今掴んでいる執着から心を解き放しましょう。 本当の愛だけがすべての状況を良い形で解決してくれるのですよ。
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